仮面ライダー龍騎のバトルシステムにおける欠陥について

映像作品
スポンサーリンク

仮面ライダー龍騎には13人+2人(疑似ライダー)=15人ものライダーが登場し、戦いを繰り広げることから、「仮面ライダー版のバトルロワイヤル作品」と表現されることがあります。

※以下、仮面ライダーと書く場合は疑似ライダーであるオルタナティブも含みます。

確かに、仮面ライダーやミラーワールドでの戦いという仕組みを作った神崎士郎はライダー同士の戦いを望んでいました。

しかし、実際にはライダー同士の戦いが機能したとは言いがたく、テレビドラマ版の仮面ライダー龍騎で他のライダーを殺めた人間は、浅倉(王蛇)と東條(タイガ)だけでした。テレビドラマ版の世界線で登場した仮面ライダーは全部で12人であり、浅倉が3人、東條が2人を殺害した以外は、誰も他のライダーを手にかけることはしませんでした。

仮面ライダー龍騎では戦いの印象が強いことから、ついついライダー同士のバトルロワイヤル作品と形容してしまいますが、それは言葉が独り歩きしているようにも見えます。

「バトルロワイヤル」と聞くと、参加者全員が戦いへの意思を持ち、殺るか殺られるかの緊迫感がある世界を想像するのではないでしょうか。しかし、仮面ライダー龍騎とは、一部の異常者(=浅倉、東條)が勝手に他のライダーを殺害し続けた話であり、「バトルロワイヤル」と言うには参加者であるライダーの士気が低すぎると思うのです。

ライダー同士の戦いの創始者である神崎士郎は、自分の思惑通りに戦いが進まないことに苛立ち、焦燥感に駆られており、何度もライダー達の目の前に現れて「戦え」と促します。戦いのシステムが上手く機能していれば、創始者自らの営業は不要なはずであり、神崎士郎の言動はライダーシステムの欠陥を示していると思います。

したがって、実際の仮面ライダー龍騎はバトルロワイヤルの作品ではなく、バトルロワイヤルをしたかったが、思った通りのバトルロワイヤルにならなかった作品であり、なぜ創始者の思惑通りのバトルロワイヤルにならなかったのか?を考えることは、各登場人物の正義がすれ違う仮面ライダー龍騎を深く考える上で意義があるのではないでしょうか。

以下で、仮面ライダー龍騎における戦いが成立し辛い構造上の欠陥を考えます。

※ネタバレを含みます

最後に残ったライダーには何が?

1つ目は、戦いに勝ち残った先に何があるのか、曖昧であったことです。「願いが叶う」「不老不死になる」のような、分かりやすい報酬は明言されずに、「戦いに勝つと大きな力を与えられる」のような非常に抽象的な表現が創始者:神崎士郎からなされています。自分の命をかけて戦う上でこのような不透明な説明では、ライダーが戦いに貪欲になれないことにも納得感があります。

ライダー同士の戦いにおいては、命を懸けてでも欲しい報酬がある、だから戦うという構造が成り立つことが士郎の狙いだったと思います。しかし15人の参加者の戦う動機を見てみると、秋山(ナイト)、北岡(ゾルダ)、神崎士郎(オーディン)、霧島(ファム)、ニセ城戸(リュウガ)のわずか5人が戦い抜いた先にある何かを得ることを原動力としているだけであり、神崎士郎の目論見通りの参加者が集まっていないことが分かります。

城戸、香川(疑似ライダー1)、手塚(ライア)、仲村(疑似ライダー2)の4人に関しては戦いを止めたい、戦いたくないという動機で戦っており、殺し合いゲームの妨害行為をし続ける存在です。

浅倉(王蛇)、芝浦(ガイ)、須藤(シザース)、高見沢(ベルデ)、東條(タイガ)のような戦闘や殺戮そのものを目的とする参加者の存在は戦いが加速しそうなものの、神崎士郎が理想とする報酬のために戦う参加者からは大きく離れています。現に浅倉は自分から警官に撃たれに行き死亡、東條はライダーの在り方に悩みながら事故死と、彼ら5人は戦いを盛り上げはしますが単発で持続性がなく、戦いを楽しみ終えるとライダーを放棄してしまいます。

佐野(インペラー)のようなお金持ちになりたいという見当違いの戦闘理由は悲劇でしかなく、「俺はただ、幸せになりたかっただけなのに。」と言いながらミラーワールドで蒸発する彼は、仮面ライダーというシステムにおける最大の被害者だったかもしれません。

物語の後半では、ライダー同士の戦いに勝ち残ると新しい命が手に入るらしいと示唆されますが、ライダーを集めて戦いを始めさせる段階で、新しい命という景品の存在を明らかにしておければ、真に命を欲する者同士の意欲的なバトルロワイヤルになったのではないでしょうか。

神崎士郎の信用できなさ

2つ目は、創始者:神崎士郎に誠実さが全くなかったことです。そもそも仮面ライダーの戦いで得をするのは士郎だけであり、士郎が「戦いに勝つと大きな力を与えられる」と報酬を濁していたのは、最初から参加者に利点がなかったからかもしれません。士郎はオーディンというライダーを操り、戦いに勝ち残った最後の1人がオーディンへの挑戦権を得ると言います。このオーディンが理不尽なまでに強く、作中でどのライダーにも倒すことはできません。つまり、ライダー同士の戦いは最後にオーディンが勝つと決まっている、いわゆる無理ゲーであったのです。

秋山(ナイト)、北岡(ゾルダ)のような勝ち残ることを目的として戦っていた真当な参加者は、大きく裏切られたと感じたことでしょう。聡明な北岡は間違ったゲームに参加していたことを悟ったのかもしれません。持病の影響もあり徐々に戦線からは離れて行き、最後は戦うことなく脱落してしまいます。

士郎の誠実さの無さは、妹である神崎優衣との関係性悪化というライダーにとって最悪な形で幕を閉じます。前提として、士郎が参加者を騙し最後は絶対に自分が勝つゲームを開催していたのは、最後の仮面ライダーが得られる新しい命を手に入れ、20歳で死ぬ運命が決まっている優衣を助けるためです。

言い換えると優衣が死ぬ歳である、優衣が20歳になる以降の世界に士郎は興味がありません。仮面ライダーが成立するための前提となるミラーワールドは崩壊への一途をたどり、優衣の死が近づくにつれてミラーワールドからモンスターが大量発生するようになり、民間人への被害も甚大になっていきます。

すなわち、優衣の存在がそのままライダーの存在理由になるのですが、優衣は何度も士郎を拒絶し、ライダーが存在する世界を終わらせようとします。

士郎は優衣を助けるためには手段を選びません。ライダーの命はもちろん、民間人の命も次々と犠牲にし優衣の命を助けようとします。その残酷なまでに真っ直ぐな愛が士郎の正義でしたが、その正義は優衣が望んだものではありませんでした。

映画版の最終回では優衣が20歳になり運命により死ぬ前に、手首を切って自殺してしまいます。発狂した士郎によりミラーワールドが崩壊、現実世界に大量にモンスターが出現してしまい城戸と秋山が特攻する、カタストロフィで最後を締められています。

テレビドラマ版の最終回では、士郎がまた優衣から拒絶されるだろうと悟り発狂し、秋山が新しい命を手に入れますが、戦いに疲れ秋山自身は死亡します。最後にはミラーワールドがなく、仮面ライダーが存在しなかったらという世界線が描かれ、神崎士郎・優衣がライダーを否定して物語は終わります。

バトルロワイヤルの創始者:神崎士郎の不誠実さがそのまま仮面ライダーというシステム自体の欠陥となり、また、あるべき参加者像の不在につながり、バトルロワイヤルは不成立になったのでしょう。

以上が、仮面ライダー龍騎においてライダー達が戦いに積極的にはなり得なかった理由の考察です。

バトルロワイヤル?

もう1点、ライダー同士の戦闘システムの欠陥を挙げるなら、時間切れという仕組みです。ミラーワールドに飛び込み人知れず戦うライダー達は、ミラーワールドに滞在可能な時間が決まっており、戦闘途中でも「時間切れか。」と言って戦いを切り上げる場面が多々あります。

毎回、勝負が決まりそうなタイミングで時間切れとなり、ミラーワールドからライダーが脱出することで戦闘が中断してしまいます。徹底的に戦わせるのであれば、時間切れの制度は不要であったでしょう。

士郎と優衣は、幼少期に親に虐待されていた悲しい過去がありました。狭い部屋に監禁されており、ある日、幼かった優衣が倒れて死んでしまいます。ミラーワールドに住む優衣と取引を行い、20歳までは延命する契約を結んだことで優衣は生き永らえますが、士郎は優衣が死なず大人になれるように新しい命を得ようとするのです。

士郎は優衣以外を犠牲にする過激な正義を掲げる人間ではありましたが、部屋に閉じ込められていた経験にはトラウマがあったのでしょうか。ライダーをミラーワールドという部屋に閉じ込めて戦わせることには、どこか罪悪感があったのかもしれません。

神崎士郎が生み出した仮面ライダーという仕組みは嘘と欠陥が入り混じるものでしたが、誰も彼の悲しみは責められないでしょう。

タイトルとURLをコピーしました