ドラゴンボールは王道中の王道のジャンプ漫画であり、何度読んでも楽しめる漫画です。
僕は、小学生の頃から今まで、ドラゴンボールを100周くらいしました。
「強いキャラがたくさん」「7つボールを集めると願い叶う」などなど、少年漫画ということもあり、ドラゴンボールは一見すると単純な設定であります。
しかし、この単純な設定の中で巻き起こる人間ドラマには、大人が見入ってしまう魅力があると思います。
そこでドラゴンボールの面白さ・魅力を徹底考察していきたいのですが、際限なく書けてしまうため、今回はあえて一つに絞り、魅力を考察していきたいと思います。
最も努力している人≠最強
僕が個人的に考えるドラゴンボールの魅力は、最も努力(修行)しているキャラクターが最強ではないことです。
本来であれば、努力は報われるのような綺麗な物語を少年漫画では想像します。
バトル漫画でよくある展開は、弱かったキャラが、努力して強いキャラを倒すではないでしょうか。
しかし、ドラゴンボールはこの原則に反します。
確かに悟空を筆頭に、味方戦士が修行して強敵を乗り越える場面は描かれるのですが、一方で修行しても戦いについてこれず離脱する戦士もいます。つまり、努力だけでは不十分であり、才能がないと戦いの土俵にすら乗れないのです。
ドラゴンボールにおける努力と強さの関係を、以下で考察します。
エリートのベジータ
最初に、戦闘民族サイヤ人のエリート戦士、ベジータについて考えます。
ベジータは天才の名を欲しいままにした人生を送っていました。
しかし、そんなベジータがいくら努力しても勝てない相手、それが悟空です。
ベジータにとって、悟空は永遠のライバルです。悟空を意識し、常に悟空を超えたい、悟空に勝ちたいと目標に据えて、厳しい修行を積んでいるベジータは間違いなく努力家です。
それが己のプライドのためであれ、悟空に勝つためであれ、努力していることには変わりません。
それでも、あのプライドの高いベジータが悟空を天才と称し、人造人間・セル編の終盤からは自身との戦闘力の差を認め始めます。魔人ブウ編の最後には、ベジータが悟空に勝てない理由を語り、「お前がナンバーワンだ」と清々しい顔で言い放ちます。
ベジータが悟空に勝てなかった理由として、ベジータは「あいつ(悟空)は、負けないために戦っているからだ」という答えを出しました。
物語の中で、結局ベジータは悟空に追いつくことができませんでした(超やGTはパラレルワールドとし考慮していません)。むしろ、物語が進むほど、実力差はより開いた気もします。
魔人ブウ編から10年後である物語最終話は、単行本版と完全版で終わり方が異なります。完全版ではベジータが「そのうち必ず勝ってみせるからな カカロット」と言って幕を閉じました。
10年もの月日があり、それでもベジータは悟空に追いつけていない様子から、ベジータと悟空には何をやっても埋められない(戦闘面での)才能の差があったのかもしれません。
頭の良さ、子供や味方へ見せる愛情、教育者としての資質は悟空より勝るものがあるかもしれませんが、戦闘面だけは悟空の方がベジータよりも努力では埋められないほどの才能の差があったと思うのです。
ベジータが直面した問題を年齢とともに振り返ると、非常に残酷な物語だと理解できます。
戦闘民族サイヤ人に生まれ幼い頃から天才と言われ、専門職(戦闘)だけを極めて生きてきたベジータ(30歳)は、非エリートの悟空(25歳)と再会します。悟空は生まれた場所はベジータと同じであるものの幼少期に地球への引越を経験しており、育ちは異なる元同僚です。悟空は引越先で、専門職(戦闘)を活かして生計を立てていたようです。
悟空はベジータと対極の評価を幼少期に受けており、落ちこぼれでした。引越先も成長が見込めないような、周囲のレベルが低い環境であり、当時30歳のベジータが25歳の悟空と地球で再会した際は、努力だけではどうやっても越えられぬ壁を見せつけます。
しかし、悟空が年齢を重ねるに従い徐々にベジータは悟空に追いつかれ、ついには悟空の能力がベジータを凌駕します。ベジータが35歳、悟空が30歳の頃までは、ベジータは「悟空は天才だ」と言いながらも、悟空を追い抜こうと頑張ります。しかし、ベジータ42歳、悟空37歳になると「お前がナンバーワンだ」と素直に自分の負けを認めます。
周囲の声もあり、30歳頃までは疑うことのなかった自分の才能や能力が、落ちこぼれとされていたライバルよりも劣るのです。そして、おそらく急激なレベルアップは望めないであろう42歳という年齢で、才能の差を明確に察するのです。
夢をいくらでも持てる読者に対して、努力だけではどうやっても越えられぬ壁を、皮肉にもベジータにが見せてしまうのがドラゴンボールです。
では悟空は?
そして、さらに残酷なことに、ベジータが認めた天才・悟空の強さは、決して作中ナンバーワンではないのです。
確かに悟空は、孫悟空少年編、ピッコロ大魔王編では最強の存在です。共に地球で切磋琢磨してきた仲間達は悟空に全く追いつけず、フリーザ編の序盤までは天津飯が本気で悟空に追いつこうとしますが、悟空の元ライバル達は続々と前線から退きます。
しかし、人造人間・セル編で悟空は息子に完敗します。全力の悟空と手加減するセルとの戦いを見て、悟飯は「2人とも手を抜いているのかと思った」と生意気に言い放ちます。
魔人ブウ編では悟飯に抜かれるのみならず、潜在能力は悟天やトランクスが間違いなく上であり、ゴテンクス超サイヤ人3には及びません。そのため物語終盤では、味方戦士内で悟空の強さは、悟飯、ゴテンクスに次ぐ3番手の立ち位置になります。
悟空はベジータ同様に努力家であり、家庭を顧みずに誰よりも修行しています。
ただ、親や仲間から戦闘の英才教育を受けるも度々その英才教育さえも拒絶し、あまり努力はせず、突拍子もなく「学者になりたい」と言い出す、戦いが嫌いな悟飯に悟空は勝てないのです。
界王神様からの潜在能力を引き出す施し(これも親のコネで得た)により、努力せずに強くなった悟飯に対して、死後も長らく健気に修行をしていた悟空は勝てないのです。
さらに、その悟飯が潜在能力で驚かされる存在が実践経験ゼロの悟天であり、トランクスでした。
このように考えると、ドラゴンボールという物語は努力値よりも個体値の影響力が強く出ている、才能至上主義の話のように思います。
少年期から読者が見守ってきた悟空は、順調に成長していき強くなります。しかし、孫悟空少年編、ピッコロ大魔王編で見せた時の悟空のような、最強の存在ではないのです。
少し前には、経済格差が広がる世の中において、個人の頑張りではどうにもならない親の財力や才能の差を妬む「親ガチャ」という言葉が着目されましたが、ドラゴンボールの世界はまさに「親ガチャ」の典型です。
子供の頃から100mを10秒1で走る、地球人の中では超人的なクリリンは悟空と共に修行をしますが、戦闘の才能に恵まれるサイヤ人悟空には敵いません。
エリートだと評されてきたベジータは、落ちこぼれであるはずの悟空に敵いません。
さらに、指導者が常におり、修行もせずに強くなれる儀式を受けられる、恵まれた環境で育った悟飯に悟空は敵いません。
誰が幸せなのか
ここで視点を変えて、残酷な才能至上主義の物語において、戦闘の才能だけでなく個人の幸せも着目してみます。
地球人であるクリリンは、戦闘力では劣りながらもフリーザ編まで主力として活躍し、人造人間・セル編ではセルゲームに同行し前線に食らいつきます。
独自に開発した気円斬をサイヤ人編で初披露し、その技の完成度の高さは悟空、ベジータ、フリーザに真似されるほどでした。
しかし、努力してもやはり才能には敵わないし、努力している才能のある者には、太刀打ちができません。
その後、魔人ブウ編では戦いを引退しており、「クリリンも死んでみるか?」と常軌を逸した質問をする悟空に対して、「俺は今幸せだ」と答えました。
クリリンの人生を見ると、才能で劣っていても努力すれば天才達の世界を知ることはでき、思うような結果が出なかったとしても確かに天才達に影響は与え、本人も幸せになることはできるのかもしれません。
では、戦闘の才能が相対的にある悟飯は幸せなのでしょうか。
悟飯は人造人間・セル編でセルを相手に「戦いが嫌いだ」と明言しており、魔人ブウ編では戦う必要がなくなったため修行せずに弱体化しています。もう戦う必要もないのに、あの世で修行を続ける悟空とは対称的です。ついに悟飯は、最終回で夢だった学者になっており、学者としての才能もあるのかもしれませんが、戦いにおいては好きと才能が一致していなかったのだと思い知らされます。
そのため、戦士としての悟飯は幸せとは言えなかったのではないでしょうか。
一方で悟空は、才能で悟飯、悟天、トランクスに劣ることに気付いた後でも、非常に楽しそうに生活しています。子供が2人もいながら全く働かず、自分の趣味(戦闘)の追求だけをしている成人男性であり、世間からの目は時に厳しいですが、本人は幸せなようです。
なぜ、息子達の才能に妬みを感じないのでしょうか。なぜ才能で劣ると気付いても、不幸せにならないのでしょうか。
おそらくその理由が、ベジータが語っていた負けないために戦っているからだと思います。
「勝つために戦う」と「負けないために戦う」は、似て非なる考え方です。
勝ちという概念には常に相手と比較しての自分が意識され、勝つためには相手を明確に上回る必要があります。しかし、負けないことは自分の中だけで決められ、負けないための手段は豊富にあります。
勝負をしないことでも良く、引分けでも許されます。負けそうであれば勝負から一時撤退しても良いでしょう。戦いが好きなはずの悟空ですが、絶対に負けるであろう戦いは参加せずに、セル第二形態、魔人ブウ善、悟飯を吸収した魔人ブウとの戦闘は瞬間移動で回避するなど、悟空は何度も瞬間移動で退散しています。
つまり、才能で勝てない相手はいくらでもいますが、自分で制御可能な負けないことを目的にすることで、常に他人ではなく過去と現在の自分との比較で物事を思考でき、自然と自分の成長を楽しめている、それが悟空だと思います。
だからあんなにもワクワクしており、幸せに頑張り続けることができるのかもしれません。
どことなく悟空は楽しそうに修行をしているのに対し、ベジータは悟空に勝ちたい思いが強すぎるためか自分の成長を楽しめず、自分を常に許せず、修行が苦行になっているのではないでしょうか。
悟空が最強ではないのにも関わらず、ベジータが「おまえ(悟空)がナンバーワンだ」と言ったのは、純粋な戦闘力だけでなく、生き方への憧れも含めた意味だったのかもしれません。
ベジータは悟空に勝ちたい気持ちがいつまでも消えず、悟空とのマインドセットにおける差分に気付いていながらも修正できないため、最終話でも戦闘における悟空との差が才能の差として現れていた、とも考えられるでしょう。
孫悟空少年編、ピッコロ大魔王編、そしてフリーザ編終盤の悟空は天才であり、最強でした。
あの頃の悟空は確かにヒーローで魅力的ではある一方で、才能で物を言わせるどこか遠い存在のようでもありました。そこから時は流れ、悟空は自分を超える才能と次々出会います。
気がつくと、悟空=天才というイメージはなくなり、次世代の若者に才能だけで見ると越されていきます。
それでも第一線にこだわり続け負けないために戦う悟空からは、才能で自己を勝る他者がいたとしても、この世界で幸せに生きていくための偉大な教訓を提示していると思うのです。
主人公である悟空が最強ではない。
そんな悟空が誰よりも楽しそう。
ここにドラゴンボールの魅力が詰まっているのではないでしょうか。
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